第22回受賞者

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経済部門
ナンダン・ニレカニ 氏
固有識別番号庁(UIDAI)初代総裁(インド)
科学技術部門 
頼明詔 氏
中央研究院分子生物研究所 名誉フェロー(台湾)
文化・社会部門 
エディ財団<団体>(パキスタン)

写真は、代表=フェイサル・エディ氏
ナンダン・ニレカニ 氏
生体認証による世界最大規模の国民ID発行システム「アーダール」の構築を先導した。発行数は11億超。配給の受給対象者を増やす一方で不正受給を減らし、貧困層支援を適正化した。
頼明詔 氏
リボ核酸(RNA)ウイルスの研究で有名なウイルス学者。2003年に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)の研究では、鍵となる発見のほとんどを手がけ、早期終息に貢献した。
フェイサル・エディ氏
宗教、階級、人種などで差別しない徹底した人道主義に基づき、24時間体制の救急搬送、自然災害への緊急対応、貧困層や難民への支援など幅広い社会福祉サービスを提供するNGO。
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経済部門
マイ・キエウ・リエン氏
「良い教育を」IT活用した教材提供

1955年、インド南部のカルナタカ州バンガロールで生まれた。好奇心旺盛で読書が好きな男の子だった。12歳の時、繊維産業で働いていた父親が転職し、ニレカニ氏は1人で同じ州の小さな町に住むおばさんの家で暮らすことになった。「両親と離れて寂しかったが独立心が芽生え、自己管理を学んだ」と振り返る。

18歳で世界でも評価の高いインド工科大学(IIT)ボンベイ校(ムンバイ)に入学。小さな町から大都市のムンバイへ再び引っ越した。小さい頃から親元を離れて複数の地域で生活し、一流大学で多様な人と交流した経験は「起業する自信を与えてくれた」。卒業後は就職し、ソフトウエアエンジニアとして約3年間働いたが、1981年にナラヤナ・ムルティー氏らとともにインフォシスを共同創業した。

2009〜14年までインド固有識別番号庁(UIDAI)の総裁を務めた後、バンガロールに戻り、EkStep財団を妻と共同創業した。教育活動に熱心な妻から「インドでは2億人の子供にもっと良い教育が必要」と説かれ、パソコンやスマートフォンなどITを活用した教材を提供。現在、数十万人が利用する。

休日には世界の料理を食べ歩く。中華や日本食、先日はペルー料理店にも行った。「でも最近は孫が生まれて忙しいよ」。顔をほころばせ、おじいさんの表情を見せた。61歳。

11億人にID 貧困改善へ

インドのムンバイ市内にある携帯電話販売店。来店した50歳代の男性が買いたい機種を決めると、店員が小型の黒い専用端末を取り出し、男性客が指を置いた。個人を証明する指紋認証だ。「以前は何日もかかっていたけど、このシステムのおかげで15分ほどで事務手続きが済むんだ」と店員は話す。

これは「Aadhaar(アーダール)」と呼ぶ生体認証システムだ。国民は申請の際に顔画像と指紋、目の虹彩画像を採取して登録し、一人ひとりに固有の12桁のID番号が付与される。システムを運用するインド固有識別番号庁(UIDAI)の初代総裁を務め、開発を先導したナンダン・ニレカニ氏は「アーダールは政府の効率性を高め、人々の生活を向上させる」と指摘する。

もっとも、事務手続きの迅速化はアーダール導入効果のひとつの側面でしかない。インド政府が福祉に力を入れるなか、個人を証明する高精度の仕組みがないため、偽装証明による補助金などの不正受給が横行。一方で、出生届などの登録制度が不十分で、貧しくても低価格での食料配給や補助金を受けられない人が多かった。本当に必要な人に補助金などを届けるとともに、不正を防ぎ、政府の経費を削減するのが同システムの狙いだった。

開発プロジェクトは2006年に始動した。09年に内閣が了承すると、シン首相(当時)は、インドのIT(情報技術)サービス大手インフォシスの共同会長だったニレカニ氏にUIDAI総裁を打診。もともとニレカニ氏は著書でIDシステムの必要性に言及していたこともあり、白羽の矢がたった。

ニレカニ氏はインフォシス共同会長を辞任。責任も重く、本人にとってリスクのある決断だったが、受諾したのは「新たな挑戦をしてみたかった」からだ。開発にはインド人の英知を結集。偽装の防止策や、指紋や目の虹彩画像など個人情報を流出させない高度なセキュリティーの確保には高い技術力が求められる。「米国など海外にいるインド人にも協力を得た」とインフォシスでの経験を生かした。

「なぜ、こんな重要なプロジェクトを民間企業出身者に任せるのか」。官僚からは反発もあった。UIDAI総裁は閣僚級ポストのため、やっかみもあっただろう。かつてアーダールとは別のIDプロジェクトが存在していたことも背景にある。だがニレカニ氏は政府内の「雑音」に耳を貸さず、時に丁寧に説明をしながら、強い意志を持ってプロジェクトを進めた。ニレカニ氏は「政府内で起業したようなものさ」と振り返る。

ニレカニ氏にとって追い風となったのが、起業の経験とノウハウだった。1981年にインフォシスを共同創業し、今や売上高が1兆円を超えるインドを代表するIT企業に育てあげた。人を動かし、新しい事業を立ち上げるのはお手のものだ。

第1号のアーダール番号は2010年に発行された。いまや全人口の9割前後の11億人超が登録するとされる。米著名経済学者で世界銀行のチーフ・エコノミストのポール・ローマー氏は「アーダールは私の知る限りで最も洗練されたシステムだ」と絶賛し、世界でも注目を集める。「開発には約10億ドルかかったが、不正受給などが減ったおかげで政府は累計で70億ドル近くも経費を削減できた」と、ニレカニ氏は胸を張る。

同システムは今なお進化を続ける。ID番号が銀行口座にひもづけられ、政府はIDだけで補助金や年金を国民の口座に直接振り込めるようになった。4月には現金もクレジットカードもスマートフォン(スマホ)も要らない「アーダールペイ」が始まった。消費者、販売者ともにIDと銀行口座をひもづけていれば、消費者は番号と指紋認証だけで支払いができる。店舗側はネットに接続したスマホと指紋認証端末があればアーダールペイを導入できる。

ヒンディー語で「基礎」を意味するアーダール。貧困改善と政府のムダ削減を目的に始まったが、「活用はまだまだ広がる」。モディ政権が「デジタル・インディア」計画を掲げて様々な分野のデジタル化を進めるなか、まさに社会の基礎として動き始めている。

<2017年5月1日 日本経済新聞社 朝刊>
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科学技術部門
王貽芳氏
伯父に感銘 揺るがぬ夢

1942年、古い街並みが残り「台湾の京都」と称される古都、台南市に生まれた。米屋を営む教育熱心な家庭で、兄弟4人全員が最難関の台湾大学に進んだ。幼少期から大好きな野球の試合も必ず日々の勉強を終わらせてから観戦に出かけ、「一言で言えば優等生だった」と自然体で語る。中学から大学までいずれも首席で卒業した。

研究者の夢を見定め、その道を迷いなく歩んだ。地元の成功大学で工学系の教授を務めていた伯父の存在が「道しるべ」だった。設備は古く、研究環境では欧米に劣っていたが、伯父はそれにもめげず、多くの論文を執筆し評価されたという。研究の合間を縫って台南の自宅に遊びに来ては研究内容などを熱心に話してくれた。「研究者とはこんなに楽しく、素晴らしい職業なんだ」。米国での長い下積み時代も、その思いは揺らがなかった。

2人の娘は自発的に医学研究を志し、今は米国の大学に奉職する。「別に同じ道に進まなくてもよかったのに」とぼやきつつも、「すぐに追い越されちゃうな」とどこか満足げだ。趣味はバイオリン。台湾大学医学部の後輩だった妻はピアノが得意で、大学の演奏会など機会があれば夫婦そろって演奏を披露する。「帰宅後、1時間程度妻と一緒に演奏する」と話すと、穏やかな表情が一段と緩んだ。74歳。

感染症との闘い 今も最前線に

直径300ナノ(ナノは10億分の1)メートル以下の楕円形のウイルスの表面に、放射状の突起が広がる。独特の形状が太陽のコロナを連想させることから「コロナウイルス」と名付けられた病原体は、2003年にアジアをパニックに陥れた重症急性呼吸器症候群(SARS)、15年の中東呼吸器症候群(MERS=マーズ)を引き起こした。台湾の中央研究院分子生物研究所名誉フェロー、頼明詔氏はこのウイルスの研究の第一人者。SARS終息を早めた功労者だ。

1968年に台湾大学医学部を卒業。分子生物学を研究するため米カリフォルニア大学バークレー校に留学したのは「遺伝子を解き明かし生命の謎に迫りたい」との思いからだった。ウイルスはゲノム(全遺伝情報)のサイズが小さく、「小さいものを深く研究することが全体を解き明かすカギになる」と考えた。

当時は小児まひのワクチンの開発などでウイルス研究が成果を上げており、「いつか研究を社会に役立てたい」との思いもあった。73年に博士号を取得すると米国の南カリフォルニア大学の教員となり、83年には教授に昇任。C型肝炎ウイルスが肝臓がんを引き起こすメカニズムを解明し、治療法の開発に貢献した。

だが主要な研究対象に選んだコロナウイルスは苦戦した。今でこそ猛威を振るう感染症の「主犯」として有名だが、かつては「人間には普通の風邪しか引き起こさず、誰も見向きもしないマイナーなウイルスだった」。同級生や同僚が研究で世界的な注目を浴びたり、大金を稼ぐのを目にしたりして「焦りを感じ、一緒に米国に来てくれた妻に申し訳なく思うこともあった」。それでも研究を続けたのはある考えが頭の片隅にひっかかっていたからだ。

コロナウイルスはRNAというカテゴリーのウイルスのなかでゲノムが特別大きく、複雑だ。「性質が変化する余地が大きく、いつか重大な病原体に転じるかもしれない」。研究開始から約30年を経て、予想は現実となる。

2003年3月、学会出席のため滞在していたオーストラリアのホテルの電話が鳴った。「SARSはコロナウイルスが原因と判明しました。一体どんなウイルスなのですか」。頼氏の滞在先を探し出した米メディアの記者は、開口一番まくし立てた。驚きとともに「ついに社会の役に立つ時がきた」と使命感がわき上がった。

SARSは02年11月に中国で原因不明の肺炎が発生したのを皮切りに、アジアを中心に感染が拡大。コロナウイルスは一気に有名になった。頼氏は厳戒態勢にあった台湾に戻り、中央研究院の副院長に就任。構造や性質など蓄積した研究成果を内外に伝えた。

03年7月、世界的な終息宣言が出るまでに8千人以上が感染、800人近くが死亡した。「頼氏の科学的根拠に基づく進言があったからこそ、まん延を迅速に食い止められた」。当時衛生署長(衛生相)として対策に当たった陳建仁・副総統はこう評価する。

「エイズウイルス(HIV)を30年以上も解決できないとは思いもしなかったし、インフルエンザは毎年異なる型が出現する」。ウイルスとの闘いに終わりは見えず、だからこそ研究同様に、後進の育成に力を注いできた。ただ「地道な研究の道を志す若者が減り、ウイルス研究が減っている」との懸念を深める。

07~11年には台南の名門、成功大学の学長を務めた。その後、中央研究院に復帰してからも研究室に閉じこもらず、当局の委員会やプロジェクトチームなどに積極的に参加し若手を鍛える。昨年には自ら率いたデング熱の研究チームの研究成果をまとめ、「デング熱に関する台湾の経験」という書籍を刊行した。専門的な内容をあえて一般向けの書籍にまとめた。「ウイルス研究がいかに社会に貢献できるか伝えたかった」からだ。

「ひとつの科学的発見は、何百人もの研究者の蓄積のたまものだ」とし、自らの業績を誇らない。感染症との闘いの最前線に立ち、慢心などと無縁の道で深めた思いだ。「ウイルスは学者よりも賢い。だからこそ多くの研究者が協力して研究しなければならないんだ」

<2017年5月1日 日本経済新聞社 朝刊>
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文化・社会部門
アジア・ユース・オーケストラ
結婚式の支援も無料で提供

創始者のフルネームを用いた正式名称「アブドゥル・サッタル・エディ財団」は地元ではよく知られた存在だ。「とても有名な財団よ。救急車に孤児院、老人ホームだけでなく、貧しいカップルの結婚式まで支援するんだから」。カラチの携帯電話ショップの女性店員は熱心にこう説明してくれた。

あらゆるサービスを原則無料で提供する。救急サービスを受けた人がお金を払うと言えば「そのお金は募金してください」と、サービス対価として資金を受け取らない。一方、売名行為が目的だと見なせば、寄付すらも断る。純粋な社会奉仕を貫くためだ。

財団では約3000人のスタッフが働く。カラチ地区の責任者ビラル氏(45)によれば月給は1万5000~2万5000パキスタンルピー程度。公務員より安いが、「ここの人道支援を気に入り、親の反対を無視して大学に進学せず、1988年に17歳で入団した」(ビラル氏)。

パキスタンだけでなく、インドでも、先祖の出身地や宗教・宗派を同じくする身内社会「コミュニティー」に根ざした慈善団体は多いが、病院が五つ星ホテルのような豪華な造りだったりして違和感を覚えることも少なくない。創始者アブドゥル・サッタル・エディ氏が異を唱えた矛盾は今も南アジア各地に残るが、代表のフェイサル・エディ氏は、慈善団体の有るべき姿を保つ精神を受け継いでいる。

 

救急車かけつけ 宗教問わず

「慈悲 1928-2016」。フェイサル・エディ氏(41)が両手の指先でそっとつまんだ50パキスタンルピー(約52円)硬貨には、そんな文言と、亡父アブドゥル・サッタル・エディ氏の肖像が刻まれていた。狭い路地を行き交う車の音、荷車を押す人々の声。最大都市カラチの財団本部には街のにぎわいが絶えず届くが、その刻印は対照的な静けさを醸し出していた。

記念貨幣の肖像になったのは、元首相らに続き5人目だ。政府は昨年7月に没したアブドゥル・サッタル氏を偉人に列し、3月末に発行した。6平方メートルの無料診療所を開いた51年を創設年とするエディ財団は今や、救急サービスを運営する世界最大の非政府組織(NGO)となり、パキスタンにとって必要不可欠な組織となった。

「場所はどこですか。どんな容体ですか」。カラチの「エディ救急車コントロールルーム」の電話は鳴りやまない。着信は24時間で3500回、12時間1シフトで電話を受け取る10人に休む暇はない。救急番号「115」と財団名「EDHI」が朱書きされた救急車の出入りも激しい。

57年に英国製救急車一台で始めた救急サービスは今、パキスタン全土で1800台を擁する。全国に335カ所ある「エディ・ウェルフェア・センター」は救急サービスに加え、行方不明者の捜索も担う。20カ所の「エディ・ホーム」には孤児ら9千人が住み、遺族ら引き取り手を待つ遺体の安置所も5カ所ある。

独立前のインド西部グジャラート州で生まれたアブドゥル・サッタル氏は、幼少期に社会奉仕の精神をたたき込まれた。登校前、母はいつも2枚のコインを手渡す。「1枚は自分のため、もう1枚は貧しい人のため」。その1枚を残し帰宅すると「自分の目の貪欲を見なさい」「貧しい人からもう搾取し始めたのか」と母に叱られた。同氏は生前、「助けが必要な人と怠け者を見極める直感が鍛え上げられた」と述懐した。

印パが分離独立した47年、アブドゥル・サッタル氏はカラチへ移住した。新たな国、新たな町が生まれる混沌の中、慈善団体も多く誕生した。だが、出身地や宗派を同じくする身内社会「コミュニティー」の内側だけで助け合う排他的な団体ばかり。異を唱える同氏は、コミュニティーや宗教・宗派で分け隔てしない慈善団体を創設した。

57~58年のインフルエンザの大流行が、エディ財団の社会的認知度を高めた。カラチに救急車はまだ5台しかなく、アブドゥル・サッタル氏は買ったばかりの1台のハンドルを握り続けた。次々に舞い込む救急要請を受けると急行し、車内で応急措置をしつつ病院に向かう。助かる場合も助からない場合もある。それでも休む間もなく、無償で人と遺体を運び続けた。

亡父の後を継いだフェイサル氏は94年12月の出来事が忘れられない。軍部が父を大統領候補に祭り上げ、クーデターを企てた。協力を拒み英国に逃亡した父は一転、「敵国インドのスパイ」と吹聴された。17歳だったフェイサル氏は1カ月、留守を預かったが「私たちは全員、逮捕されると毎日おびえていた」と振り返る。

現在取り組んでいるのは、カラチ市内に120床を備えた病院を建設し稼働すること。応急措置を担う看護師らを養成し、効果的な救急サービスを提供できる人材を増やしていくのが狙いだ。

国内各地の求めに応じ、活動範囲を広げたエディ財団だが、その活動原資は半世紀前と変わらず寄付金頼みだ。年15億パキスタンルピーの予算のうち、4~5割は基金の利息収入で賄い、残りはパキスタン人個人や企業の寄付金だけ。パキスタン政府や海外慈善団体からの資金拠出の申し出は断り続けてきた。政治的な色がつくことを恐れるためだ。

寄付金に頼るもう一つの理由は、財団の存在意義を測るバロメーターにしたいからだ。「寄付金が減れば、社会における我々の必要性が減った証し。活動も徐々に縮小していく」。フェイサル氏はこう断言する。

同氏にとって財団の救急・福祉サービスは「欧州のような福祉国家が整えば本来、政府が担う物」。財団の活動を政府が担うようになり、財団が必要なくなる日は「私の生きているうちに訪れないと思う」と話すが、その日を心待ちにしている。

<2017年5月1日 日本経済新聞社 朝刊>
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