第23回受賞者

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経済部門
馬軍 氏
公衆環境研究センター代表/中国
科学技術部門
グエン・タイン・リエム 氏
ビンメック幹細胞・遺伝子技術研究所所長/ベトナム
文化・社会部門 
ビンデシュワル・パタク 氏

スラブ・インターナショナル創設者/インド
馬軍 氏
中国を代表する環境NGOの創設者。インターネットを活用し、各地方の環境情報や企業の環境問題への取り組みを比較可能にし、地方当局や企業に改善を促している。
グエン・タイン・リエム 氏
小児外科医としてベトナムに初めて小児腹腔鏡手術やロボット手術を採り入れ、直腸肛門奇形などの手術成績向上に貢献。多くの外科医に技術を教えている。
ビンデシュワル・パタク 氏
下水施設なしで使える簡易バイオトイレの普及に取り組み、150万基以上を設置して衛生状況を改善。貧困層女性の安全対策などにもつながることから、「トイレの聖人」と呼ばれる。
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経済部門 馬軍氏
企業の環境対策「見える化」

「米アップルを慌てさせた男」として知られる。

2006年に非政府組織(NGO)の「公衆環境研究センター(IPE)」を立ち上げた。中国で活動するグローバル企業が部品や素材の調達先を含めて環境保全にどのくらい熱心に取り組んでいるかを指数化し、ランキングにして公表している。

アップルは2010年に、およそ30社のIT(情報技術)企業のうち最下位という不名誉な称号を与えられた。「最新のランキングでは、そのアップルが1位になったんですよ」。北京中心部にあるマンションの部屋に構えたIPEのオフィスで、馬軍氏は人なつっこい笑顔を浮かべながらこう語った。

はじめはアップルに質問状を送っても「企業秘密」を理由にまともな答えが返ってこなかった。しかし、1年半の時間をかけてじっくり話し合ううちに、同社が部品や素材を調達している工場がいかに環境を汚染しているかが次第に浮かび上がってきた。

「いったんそれに気がつくと、彼らは問題の解決に動き始めました」。アップルのようにIPEの働きかけで環境汚染につながる問題を克服し、ランキングの順位を上げた企業は約200社にのぼる。日本企業では、パナソニックなどが上位に名を連ねる。

こうした情報はIPEが独自に開発したアプリを使えば、だれでもスマートフォンやパソコンを通じて簡単に手に入れられる。IPEのねらいは明確だ。「情報を公開し、だれでも見られるようにすれば、大衆が自ら企業や政府に環境の改善を迫れる」

環境問題にかかわるようになったきっかけは、1990年代の記者時代にある。香港の英字紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストの北京支局員として、中国全土を飛び回った。

「どこに行っても環境破壊がひどいのに驚いた」。特に深刻だと感じたのが河川や湖の汚染だった。どうしてこんな惨状になったのか。徹底的に調べ上げ、99年に「中国の水危機」というタイトルの本にまとめた。

この本は英訳され、中国の水質汚染の実態を初めて告発したリポートとして馬氏の名を世界に知らしめる。2006年5月には米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた。

IPEを設立したのはその直後だ。最初に手がけたのが「中国水汚染地図」の作成だった。中国当局が公表している水や空気の汚れ具合に関する情報をかき集め、データベースにした。各地の汚染状況がひと目でわかるこの地図は大きな反響を呼び、中央や地方の政府に対して環境の改善に取り組むよう圧力をかける効果があった。

しかし、次第にこれだけでは環境問題の解決にはつながらないと考えるようになる。汚染の元凶である工場、そしてそこから部品や素材を調達する企業が行動を改めないかぎり、環境破壊を根っこから食い止めるのは不可能だと気づいたからだ。

目を付けたのは、当局が環境規則に違反したと指摘した工場の記録だった。最初の1年間はおよそ2000件の情報しか集められなかったが、地道な作業の積み重ねでいまは97万件に達した。

違反を犯した工場と取引のある企業は、冒頭で紹介したランキングの上位に上がれない。アップルがいくら自分たちは環境にやさしい経営に取り組んでいると主張しても、IPEの追求から逃げられなかった理由がここにある。

IPEの活動に、当初は企業や地方政府から圧力がかかったのは言うまでもない。脅しに近いものもあった。だが、人びとや政府、企業の環境汚染に対する危機意識が強まるにつれ、IPEの活動は世の中に受け入れられるようになったと感じる。

「われわれと企業や地方政府が一体となって解決策を探る。企業の側も環境問題を克服しなければ消費者の支持を得られず、存続できないことはわかっているので、われわれに協力するようになった」

その活動は着実に根を張り、中国の環境改善に大きく貢献している。中国にきれいな水と空気を取り戻すまで、馬氏の人生を懸けた取り組みは続く。

中国駆け回る取材が原点

子どものころ、父親にラジオを買ってもらったのをきっかけに、英語が好きになった。ラジオから流れてくる英語を必死に聞いて勉強しているうちに、いつしか英語を使う仕事に就きたいと思うようになった。

1993年に香港の英字紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストに入る。当時、同紙が中国本土に持つ支局は北京だけだった。全国をくまなく回り、あらゆるニュースを追いかける日々。その過程で、中国の水や空気が危機的といっていいほど汚染されている実態に気づく。馬氏の取材のテーマは次第に環境問題へと絞られていった。

成果をまとめた「中国の水危機」を出版したあと、環境問題にもっとじかに関わりたいと考えるようになり、2002年に環境コンサルティング会社に転職する。ここで学んだ企業の環境政策や関連の法律、サプライチェーン(部品調達網)管理の手法がその後の活動の基礎となる。

04年には米エール大学の留学プログラムに合格し、1年間の研究生活を送る。米国では市民が環境汚染の原因をつくった企業を法廷に訴えて問題を解決する実情を知る。司法制度が異なる中国ではどうやって企業の行動を変えるべきなのか。米国での思索をへて、出てきた答えが公衆環境研究センター(IPE)の設立だった。山東省青島出身、49歳。

<2018年5月14日 日本経済新聞朝刊>
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科学技術部門グエン・タイン・リエム氏
小児医療、最先端で格闘

ハノイ中心部にある国立小児病院はベトナムの小児医療の中核施設。2016年に大規模な拡張工事を実施し、400人の医師と1000台のベッドを持つ東南アジア最大級の小児病院となり、毎日約4000人の患者が訪れる。医療水準が決して高いとはいえないベトナムで、小児医療分野が充実していることを象徴するこの病院。立役者はベトナムの「小児医療の父」といえるグエン・タイン・リエム医師だ。

リエム氏は1997年にアジアで初めてとみられる子供への腹腔(ふくくう)鏡手術をベトナムで実施した。体が小さく、臓器の位置が近い子供の腹腔鏡手術は難しく、当時欧州で始まったばかりだった。94年にパリで技術を学ぶ機会があったリエム氏は高水準だったベトナムの子供の死亡率を下げたい一心で、いち早く導入を決めた。当時のベトナムには内視鏡はドイツ企業が貸してくれたサンプル品1つしかなかった。

最初の手術は北部バクザン省の3歳の幼児だった。神経の問題で一部臓器が不全になる病気だった。大人ならば2時間ほどで済む手術が6時間かかった。手術は無事成功した。この手術をきっかけにベトナムに子供の腹腔鏡手術が広まり、リエム氏は現在では年間300件近い腹腔鏡手術を実施するようになった。

手術支援ロボットなど最先端技術もベトナムに導入した。直腸、大腸などの子供向け内視鏡手術で、8つの新しい技術を開発した。その一部は「リエム・テクニック」として海外でも知られるようになった。

リエム氏の努力でベトナムの子供の疾病による死亡率は劇的に低下した。94年にほぼ100%だった胆道閉鎖は現在5%、93年に61%だった腸閉鎖は同2%になった。

移植医療での功績も大きい。2004年以降、腎臓、肝臓、骨髄の移植をいずれもベトナムで初めて実施した。移植の技術、臓器提供者とのネットワークなどが蓄積されていないベトナムで、リエム氏はあえて挑戦した。2008年に劇症肝炎の5歳児に施した生体肝移植では準備期間が24時間しかなく、医師20人で何とか成功させた。

現在はビンメック国際病院の幹細胞・遺伝子技術研究所所長を務め、脳性まひ、自閉症などの移植による治療法を研究している。すでに脳性まひ患者に対する幹細胞移植を30件実施しており、手助けがあれば歩行可能なほどに回復させた事例もある。リエム氏は「病に苦しむ子供たちを1人でも多く救うことが私の使命だ」と話す。

リエム氏が医師を志したきっかけは高校生のときの母親の死だった。肺がんが判明し、わずか1年ほどで亡くなってしまった。小児医療に進んだきっかけは大学の恩師の存在があった。卒業した1979年、ベトナム戦争の傷痕も残り、ベトナムの小児医療は「何もない状態だった」(リエム氏)。食べるものがなく、子供の栄養失調は常態化し、医療以前ともいえる惨状だった。そんな中、恩師は必死に小児医療を充実させようと努力していた。

ハノイの国立小児病院では人材育成、組織づくりまで幅広く自ら指導し、現在の最先端の施設をつくり上げた。副院長のチャン・ミン・ディエン氏は「リエム氏がいなければ現在のような国立小児病院はできなかっただろう」と話す。

リエム氏の薫陶を受けた400人の医師の中には地方から学びに来ている人も多い。苦しむ子供を助けたいというリエム氏の熱い思いは次の世代が引き継ぎ、ベトナムの医療水準をさらに引き上げるだろう。

優れた技術の裏に優しさ

1952年、北部タインホア省で生まれた。ベトナム戦争中は米軍の「B-52」などの爆撃機が飛来し、「爆撃の爆音と恐怖はいまでもはっきりと覚えている」(リエム氏)。自身は従軍しなかったが、兄は南部で戦死した。

大学で知り合った夫人(60)は同じビンメック国際病院で産婦人科医として働く。2人の子供も医師で、長男はハノイの国立小児病院、長女はオーストラリアの研究機関で働く。夫人によると、学生時代のリエム氏は「冬でも半ズボンをはき、ださい髪形をした典型的な田舎から来た貧乏学生だった」。ハノイの比較的裕福な家庭で育った夫人は時折、資金援助をしたという。

ベトナムの医師のステータスは高く、横柄な態度を取る人も中にはいる。リエム氏の物腰は柔らかく、気配りも人一倍だ。取材が終わり、記者と助手を夕食に誘ってくれた同氏は用事で来られなかった助手に対して「遠慮しているのではないか?」と何度も来るように促していた。優れた医療技術、研究の裏には人への優しさがあふれている。66歳。

<2018年5月14日 日本経済新聞朝刊>
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文化・社会部門ビンデシュワル・パタク氏
トイレ普及で差別撲滅

赤いシャツを着た男の子に、牛が突然、襲いかかった。倒れた彼を救おうと、幾人もの人々が駆け寄ってくる。だが「その子は『不可触民』の子だ!」――。人垣の後ろから上がった非情な一声に、救いの手はみるみる遠のいた。現場に残った25歳の青年は、友人と2人で男の子を抱きかかえ病院をめざすも、たどり着く前にその子は事切れた。

インド東部ビハール州の町の市場で起きた1969年冬の出来事だ。そして小さな命を救えなかったこの青年こそ、インドに水洗トイレを普及させたビンデシュワル・パタク氏だ。縁もゆかりもない「10歳か12歳くらいだった」男の子の最期は、半世紀を経た今も、パタク氏の脳裏に焼き付いて離れない。

不可触民は、古代インドからある4階級の身分制度「ヴァルナ」のさらに下層に位置づけられてきた人々の末裔(まつえい)だ。彼らは自らの階層を「ダリット」と呼ぶが、英語では「アンタッチャブル」と呼ばれ、触れてはならないと差別されてきた。夜明けとともに上位階層の家々を回って便所を掃除し、集めたふん尿を町や村の外れに運んでは廃棄する仕事に従事させられてきたからだ。

家々の清潔さと人々の健康を守る重要な役回りなのに蔑まれる矛盾。「水洗トイレの普及が差別根絶の第一歩だ」。こう思い至ったパタク氏が70年に設立したのが「便利トイレ組織」を意味する非政府組織(NGO)「スラブ・シャウチャラヤ・サンスタン」(現スラブ・インターナショナル・ソーシャル・サービス・オーガニゼーション)だ。

「便利トイレ」と呼ぶ2槽式の水洗トイレは、パタク氏が独学で考案した。1リットルの水を流すと排せつ物は便器から排水溝を伝って1槽に流れ込む。満杯になるとその槽では肥料を作り、他方の槽が排せつ物の受け皿となる。肥料は無臭で農業の役にも立つ。

技術は整ったのに資金が集まらなかった。トイレの設置費用は当時の為替レートで1基33ドル程度。補助金を申請しに行ったビハール州政府の上級官僚は「誰がそんな物にお金を出すんだね」と一笑に付す。仕方なく知人から借金したが、今度は設置許可が下りない。73年7月に最初の2基を同州の町アラーに据え付けるまでの数年は、理解を得ようと奔走するが糸口すらつかめず「自殺も考えた」(パタク氏)苦難の日々だった。

心の支えは国父マハトマ・ガンジーだった。69年のガンジー生誕百年祭に向けた準備組織に加わり、その事務局長に「ガンジーが夢見た不可触民の救済を、君が成し遂げるのだ」と言われたのがそもそものきっかけだった。「まずインドをきれいにし(=不可触民を救済し)、それから独立したい」と言ったガンジーの言葉の数々を励みとした。

最初の2基が設置できると評価は一気に高まった。74年にスラブ式トイレは政府に新しい概念の公衆トイレとして認められ、全国に広まった。世界保健機関(WHO)やユニセフにも受け入れられた。

NGOが設置した公衆トイレは西部マハラシュトラ州の2800カ所を筆頭に全国で8500カ所、家庭用トイレは150万カ所に上る。パタク氏のデザインを用いた政府設置トイレも6千万カ所と、急速に広がった。

それでもトイレの普及率は「まだ50~60%」程度だ。野原ややぶで用を足す人々は今も多く、女性が暴行を受ける事件が後を絶たない。「1村に1人派遣できればトイレ設置を啓蒙できる」とNGOでは指導員を派遣する。

パタク氏にはいま、心強い同志がいる。お茶売りから身を立てた庶民派のナレンドラ・モディ首相(67)だ。「私の出自は小さい。そして小さき人々のため小さい問題に取り組む信念がある」と言うモディ氏は「ガンジーの生誕150周年の2019年までにすべての家庭にトイレを設置する」という目標を掲げる。

目標は遠い。だがパタク氏の地元ビハール州の村でも、モディ氏の地元、西部グジャラート州の町でも、不可触民が他の人々と共に食事する風景が見られるようになった。13億人の国の変化は時間がかかるが、パタク氏が半世紀前に願った差別撲滅というゴールは確実に近づいている。

「社会の恥」現場へ走り訴え

1943年にインド東部ビハール州で生まれたビンデシュワル・パタク氏は、4階級の身分制度「ヴァルナ」では一番上に位置するバラモンの家庭出身だ。幼少期に「アンタッチャブル(不可触民)に触れるとどうなるのか」という好奇心を抑えられず、不可触民の女性に触れたことがある。すると祖母が激怒した。牛のフンと尿、そしてガンジス川の水を飲み込む罰を与えられたという。

1968年から69年にかけて不可触民の村に3カ月住んだことがある。その際も差別の伝統が立ちはだかった。自分の家族、妻の両親、バラモンの地域社会に猛反対され「義父には『おまえには会えない』と怒鳴られた」と振り返る。だが牛に襲われた男の子の死や、ふん尿運びを強要され泣き叫ぶ不可触民の花嫁らを目撃するにつれ、パタク氏は家族の反対に聞く耳を持てなくなったと述懐する。

最初のトイレ2基を設置したビハール州アラーで「不可触民がまだ、ふん尿運びをさせられている」という一報を受けた際には、NGO本部のあるニューデリーからすぐに飛んで行った。

周囲の制止も聞かず不可触民に合流し、長柄のスコップで家々から排せつ物をかき集め、一斗缶に流し込んだ。そして彼らと同様、それを頭上に載せて町外れまで運んで捨てると「この吐き気を催す仕事を彼らに毎日させ続けるのは我々の恥、社会の恥だ」と訴えた。75歳。

<2018年5月14日 日本経済新聞朝刊>
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