第20回受賞者

経済・産業部門 マイ・キエウ・リエン氏
ビナミルク 会長兼CEO/ベトナム
科学技術・環境部門 王貽芳氏
中国科学院高能物理研究所所長
文化・社会部門 アジアユースオーケストラ/香港
写真は、オーケストラを代表して受賞するリチャード・パンチャス芸術監督・創設者
マイ・キエウ・リエン氏
ベトナムに「乳製品市場」を作り出し、ビナミルクを同国経済の牽引役に育て上げたアジアを代表する経営者。健康志向の高まりに応える形で内需を開拓したほか、海外にも積極展開している。
王貽芳氏
素粒子ニュートリノで大きな課題として最後に残っていた物理的数値を世界で最初に突き止めた実験の提案者であり、実験チームの責任者。ニュートリノ物理学では近年の大きな節目となる成果を挙げた。 
リチャード・パンチャス芸術監督・創設者
アジアの若手音楽家で構成するオーケストラを毎年編成し、世界各地で公演。音楽を通じた若者同士の交流と相互理解の促進に取り組んできた。
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経済・産業部門
マイ・キエウ・リエン氏
品質にこだわり、消費者の信頼

 1953年、パリ生まれ。モスクワの大学で乳製品、肉の加工について学び、ベトナム戦争終結翌年の76年にベトナムに戻った。菓子や牛乳工場の技師を経て、84年に当時国有企業だったビナミルクに入社。めきめきと頭角を現す。

 CEOだった2008年には政府から商工省の副大臣就任を打診されるが、辞退する。ベトナムでは省庁の幹部登用は大変な名誉で断る人はほとんどいない。酪農導入による品質向上を進めていたことが理由とみられる。

 その努力は翌年報われる。中国でメラミンが混入した粉末牛乳が見つかり、大量に輸入していたベトナムでも大問題となった。一部の乳業メーカーは製品が売れず、倒産寸前に追い込まれるなか、ビナミルクはほとんど売り上げが落ちなかった。こだわりの品質管理が消費者に理解してもらえていたからだ。12年にはベトナム人で初めて米フォーブズ誌による「アジアで最も影響力のある女性実業家50人」に選ばれた。

 庶民的な側面もある。ベトナム有数の資産家ながら、お手伝いさんは雇わず、高校の同級生だった夫と2人の子供のために毎日炊事と家事をこなす。残業はほとんどせず、携帯電話も持たない。

 リエン氏の任期は16年まで。55歳で引退を希望していたが、慰留されて続投した。今のところ、後継者候補の名前は挙がっていない。「ベトナム人女性は結婚後も働くのが当たり前で大変だけれども、その大変さがベトナム女性を輝かせている」。61歳。

新鮮な牛乳 国の人々へ

 ベトナムで最も有名な女性経営者と言って差し支えないだろう。牛乳、乳製品をベトナムに広め、同国の食品メーカーで最大、上場企業で時価総額2位の優良企業を作り上げた立役者だ。

 4月24日、ハノイのノイバイ国際空港にベトナム・デイリー・プロダクツ(通称ビナミルク)がオーストラリアから輸入した乳牛400頭が到着した。昨年11月に稼働したばかりのタインホア省の最新技術を導入した牧場で飼育する。ビナミルクの乳牛の飼育頭数は2020年には現在の1.8倍の14万頭に増える。

 ベトナムではもともと酪農はほとんど行われていなかった。牛乳といえば中国やオーストラリアから輸入した粉末を水で加工したものしかなく、消費者は新鮮な牛乳を飲めなかった。06年、リエン氏が本格的な酪農を始め、THグループ(通称THトゥルーミルク)など後発企業も追随した。2人の子供を育てる親として栄養豊富な牛乳、乳製品をもっと広めたかった。

 ユーロモニターによると、1990年のベトナムの1人あたりの牛乳年間消費量はわずか0.5リットルだった。品質の良い牛乳が出回り、13年には36倍の18リットルになり、45年には50リットルに増える見通しだ。「消費者目線で考えれば、消費者は必ず応えてくれる」。リエン氏はこの成功体験から学んだ。

 素朴な疑問を真剣に考え、他人の意見をよく聞くというのが周囲の評判だ。酪農を始めたのも「なぜ、ベトナム人はあまり牛乳を飲まないのか?」と当たり前の疑問を持ったからだ。

■   ■

 ビナミルクは元国有企業で、03年に株式の民間売却を始めた。リエン氏は情報公開を推進し、取締役会に外国人メンバーの参加も認めた。社会主義国のベトナムでは経営の透明性を高める企業はまだ少なく、投資家に新鮮に映った。いまでは外国人株主の出資比率は発行済み株式総数の49%と上限いっぱい。「ベトナムで最も成功した国有企業の民営化事例」と評される。

 ベトナムでは転職が多いことを問題視し、「社員が辞めない会社を作ろう」と社内に号令をかけた。給与水準は上場企業でトップクラスに上げ、平社員にもストックオプション(新株予約権)を与えた。本社には社員が自由に利用できるプールも設置。結果、ビナミルクは15年の大学生の就職人気ランキングで消費財大手のユニリーバに次いで2位となった。

 「ビジネスとはプレッシャーに打ち勝つことであり、変化を恐れてはいけない」。常に変化を続け、間違ったと思ったときは撤退の決断も速い。一時期、ビールとコーヒー事業に参入したことがあった。相乗効果が出ないと分かったらすぐに同業他社に事業を売却し、いまでは牛乳・乳製品事業に特化している。

 海外にも挑戦する。第1弾として年内にカンボジアの首都プノンペンに牛乳・乳製品の工場を新設する。カンボジアの乳業大手、アンコール・デイリー・プロダクツと共同出資で、2300万ドル(約28億円)を投資する。

 アジアの次は欧州・中東を狙う。14年5月、ポーランドに100%出資の現地法人を設立した。欧州を拠点に牛乳、乳製品があまり普及していない国、地域に製品を輸出する。一からベトナムで市場を作った成功体験を世界でも実現する。

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 モーレツ経営者とのイメージも強いが、オンとオフの切り替えはうまい。仕事が終わるとまっすぐ家に帰る。家事をこなし、ヨガ、プール、読書などの趣味にも時間を割く。普通の主婦のように生活することで、消費者目線を忘れずにいられると考える。

 「困難に直面すればするほど、創造的で革新的に変わることができる」。リエン氏はよくこう話す。誰よりも多くの困難に立ち向かい、克服してきた自信があるから言える言葉だ。

<2015年5月8日 日本経済新聞社 朝刊>
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科学技術・環境部門
王貽芳氏
中国の素粒子物理を主導

 1963年、江蘇省南京市生まれ。92年にイタリアのフィレンツェ大で博士号取得。米マサチューセッツ工科大、スタンフォード大で研究員を務めた。海外に散らばった優秀な研究者100人を国内に呼び戻す「百人計画」を進める中国政府の招請を受け、2001年に帰国。中国の素粒子物理学を主導してきた。11年から現職。

 「首尾一貫、道理、ロジックがないものには興味がない」が口癖だ。淡々と語った研究の理由も枝葉が一切ない。「ニュートリノを研究することで我々の生活が良くなるとか、そんな効用は一切ない。ただこの宇宙、世界の理解を深めたいだけだ」。解を見いだすことに執念を燃やす。

 中国では比較的若くして成功しただけに、学界では妬まれることも多い。だがそうした雑音は「本質的ではない」と意に介さない。リラックス方法は「読書、それに家族との会話」と意外に普通だ。今年9月に大学生になるという娘は、父と同じ物理学を専攻するという。52歳。

宇宙の真理に近づく執念

 宇宙の真理に誰よりも近づいた瞬間だった。

 2012年3月。中国・北京の中国科学院高能物理研究所で、王氏は緊張感と闘っていた。総勢300人近い研究チームが55日間、不眠不休の試行錯誤の末にかき集めた実験データだ。間違いがあるはずはない。祈るように解析を進めると、数式が確かな傾向を示した。「第3のニュートリノ振動」を99.9999%以上の確度で確定した——。

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 物質を構成する最小単位の一種、素粒子ニュートリノ。物理学や天文学の分野で世界の研究者らが成果を競い合う最先端の研究テーマだ。日本でも東京大学の小柴昌俊特別栄誉教授がノーベル賞を受賞し、広く知られるようになった。王氏らがとらえたのは、そうしたニュートリノ研究でも「最後の未知」とされた物理現象だ。

 ニュートリノは知られている素粒子の中で最も軽い。宇宙や太陽から大量に降り注いでおり、原子炉からも出ている。だが実際の観測は困難を極める。とても小さく、ほとんどの物質を通り抜けてしまうためだ。物質を分子、原子へと分解していき、さらにその中心にある原子核を取り出して地球に例えれば、ニュートリノは米粒ほどの大きさでしかない。粒子の中で最も不明な点が多く「ゴースト粒子」の異名を持つほどだ。それだけに挑みがいがあった。

 王氏が着目したのは「ニュートリノ振動」と呼ばれる不思議な現象だ。

 ニュートリノには、電子型、ミュー型、タウ型の3種類があり、空間を飛んでいる間に次々と別の種類に変身してしまう性質を持つ。これがニュートリノ振動で、パターンは3つ。このうち2つは1990年代末から00年代初頭にかけて、日本を中心とするいくつかの国際共同実験で確定した。王氏が解き明かしたのは、電子型から他の型へ変化する最後のパターンだった。

 ニュートリノが注目を集めるのは、宇宙の成り立ちや進化、物質の起源の謎を解くカギになるとみられているからだ。

 例えば「反物質」の謎だ。ビッグバンで宇宙が無から誕生したとき、星や生物の体などを形作る物質と、それとは反対の電気を帯びた反物質が同じ数だけ生まれたとされる。しかし現在の宇宙にはなぜか物質しか残っていない。自らの状態を次々と変えるニュートリノの性質を解明すれば、反物質が消えた謎に迫ることができるかもしれない。

 「第3の振動」はあまりに変化が小さく「存在しないかもしれない」とされていた難問だ。なぜ中国がいち早くたどり着けたのか。「協力者が多く、実験設備も良かったからだ」と王氏は言い切る。

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 人生の転機は85年、ある一人のノーベル賞物理学者との出会いだった。中国系米国人のサミュエル・ティン氏だ。海外留学に誘われ、11年間師事した。「設備も資金も大きければ大きいほどいい。国際プロジェクトは研究の近道だ」。ティン氏が次々と新たな研究成果を生み出す傍らで、国際協力の重要性を肌に染み込ませた。

 そして03年。世界最大級の大亜湾原子力発電所(広東省)近くで「第3の振動」発見につながるニュートリノ観測施設が着工した。建設は難航した。原発に隣接する山の地下を掘り進み、1台100トンという巨大なニュートリノ検出器を6台並べる必要がある。足かけ10年、投じた金額は2億5千万元(約50億円)。世界中から集まった協力者の中心にいたのが王氏だ。

 探求に終わりはない。広東省江門で新たな研究事業を立ち上げる。今回は総額20億元を投じ、地下700メートルに直径35メートル、13階建ての世界最大級のニュートリノ検出器を設置する。もちろん国際プロジェクトだ。「日本? 当然参加してほしい。協力できることは極めて多い」。普段冷静な王氏が珍しく声を大きくした。

<2015年5月8日 日本経済新聞 朝刊>
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文化・社会部門
アジア・ユース・オーケストラ
アジアとの関わり、半世紀に

 米国出身のリチャード・パンチャス氏とアジアの関わりは半世紀近くに及ぶ。1960年代後半から台湾や日本で音楽教育を手がけ、中国の改革開放政策が始まってまもない頃には上海音楽学院で教えていた。

 そのころ生徒からよく聞かれたのが「どうすれば海外留学できるのか」という質問だった。才能のある音楽家ほど、欧米に留学しても母国には戻らない。「アジアの音楽家がアジアで学び、何をできるかを示せる舞台をつくれないか」。頭に浮かんだのが、アジアユースオーケストラのアイデアだった。

 設立趣意書を書き上げて、最初に持ちかけたのが、世界的なバイオリン奏者・指揮者だった故ユーディ・メニューイン氏。事前の面識はなかったが、押しかけて説明すると「協力しよう」と即答だったという。

 資金面では香港で「ニュースの女王」と呼ばれた胡仙(サリー・オー)星島新聞集団主席(当時)が設立資金を出し、日本企業からも支援を受けた。「何者でもなかった私を信頼し、お金と子どもたちを与えてくれた。いまでもどうしてなのかわからない。AYOの奇跡の一つだ」とパンチャス氏は振り返る。

 「毎年、夏が終わると『AYOを続ける必要があるだろうか』と自分に問いかけるが、これまで以上に必要になっていると感じる」。70歳を迎えて後継者選びも視野に入るが、音楽家、教育者としての顔に加え、資金調達の才能を持つ後任を選ぶのは至難の業だと笑う。

音楽の才能 花開く場を

 アジアユースオーケストラ(AYO)は今年、活動を開始して25周年を迎える。「これは大事なプロジェクトだ。だれかがやらなきゃいけないんだ」。創設者で芸術監督のリチャード・パンチャス氏は資金集めに走り回っていた頃、富士ゼロックスの小林陽太郎社長(当時)にかけられた言葉を今も覚えている。

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 毎年7月中旬、アジア各地のオーディションで10倍近い倍率をくぐり抜けた17〜27歳の音楽家の卵たち約100人が香港に集結する。当初3週間は朝から夜まで1日9時間のリハーサル漬けの日々を送り、続く3週間は著名な指揮者やソロ演奏者とともにコンサートツアーで世界を回る。6週間だけの期間限定オーケストラだ。

 1993年から計5回参加したファゴット奏者の田口美奈子さんは「世界の第一線で活躍する演奏家十数人を講師に招いて、楽器ごとに教えてくれるのが魅力だった」と振り返る。「アマチュアのオーケストラではなく、プロの卵が次のレベルに進むための試みだ。才能あるアジアの若者たちに、ここにしかない機会を与えたい」(パンチャス氏)。これまでのオーディションへの応募者は2万人を超え、公演回数は366回、100万人を超える聴衆が演奏を楽しんだ。

 参加者が払うのは登録料だけで、残りの費用は企業や個人からの寄付ですべてをまかなう。NPOの評議員会議長を務める香港の物流大手、クラウン・ワールドワイド・グループのジム・トンプソン会長は「多くの若者が香港で出会い、練習し、素晴らしいオーケストラになってアジアに喜びを与える。これは奇跡だ」と語る。

 1990年の初コンサート以来、AYOはアジアの発展とともに歩んできた。96年にはベトナムで50年ぶりの国際的オーケストラとして演奏した。97年の香港返還記念式典では有名チェロ奏者のヨーヨー・マ氏と共演した。

 大都市だけでなく、地方でもホームステイしながらコンサートを開く。東日本大震災後の2012年には仙台で復興支援コンサートを実施した。地元の家庭が温かく迎えてくれたことに、多くのメンバーが感激したという。「祖父母や両親から第2次世界大戦の記憶を聞いていた若者も、その国を好きになる。成功の秘訣の一つだ」とパンチャス氏は言う。

 アジアの政治的緊張と無縁だったわけではない。小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝で日中関係が緊張していた06年、終戦記念日の8月15日には北京でコンサートが予定されていた。「いつものように国ごとにメンバーを紹介するのですか」。日本人メンバーはおそるおそる尋ねたが、演奏が終わり、パンチャス氏がいつものように「日本からは20人のメンバーが来ています」と紹介すると、聴衆から万雷の拍手を浴びた。

 フィリピンの沿岸警備隊が台湾漁船に発砲した事件が起きた13年。台湾当局はフィリピン人メンバーの演奏を許可しようとしなかったが、関係者が交渉した結果、到着直前になってようやく許可が出たこともあった。

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 過去四半世紀の間にメンバーの出身国・地域の構成も大きく変わった。設立当初は台湾、香港、日本の参加者が多数を占め、中国本土からはわずか2、3人だった。だが今では中国からの参加は2割を超え、フィリピン、タイ、ベトナム、インドネシアなど東南アジアにも広がる。

 6週間を音楽とともに過ごすうちに、国家や言語、文化の壁は次第に溶けていく。「私はソロ演奏にしか興味が無かったが、3年前にハノイでコンサートを見て『あのオーケストラでいつか演奏できれば』と夢見ていた。音楽への同じ情熱を共有する多くの友達ができた」。14年にベトナムから参加した17歳のホアン・ホー・カイン・バン君は、音楽家として生きる決意を新たにしたと電子メールで伝えてきたという。

 田口さんは現在、香港シンフォニエッタで活動しているが、「AYOに参加していなければ、オーディションを受けることも考えなかっただろう」と話す。音楽を通じてアジアを結び、アジアの優秀な才能を開花させるというAYOの理念は実を結び始めている。

<2015年5月8日 日本経済新聞 朝刊>
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