第18回受賞者

チュオン・ザー・ビン 経済発展部門  チュオン・ザー・ビン (FPTコーポレーション 会長兼CEO、ベトナム)
ベトナム最大のIT企業の創設者。業界団体の設立や人材育成を通じ同国のソフトウエア産業を育てた。
テジラジ・アミナバビ 科学技術部門 テジラジ・アミナバビ (ソニア薬科大学名誉教授、 インド)
新しい高分子膜の開発とその応用の権威。高分子科学研究所を開設し、後進の指導にも尽力した。
ヴァン・モリヴァン 文化部門 ヴァン・モリヴァン (建築家、カンボジア)
「独立記念塔」や「オリンピックスタジアム」など、カンボジアを代表する独創的な建築物を生み出した。
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経済発展部門
チュオン・ザー・ビン氏(FTP会長兼CEO、ベトナム)
貧しさバネに飛躍

1956年、ベトナム中部ダナン市生まれ。ベトナム戦争が始まった幼少期は、貧しさと背中合わせだった。空腹を満たすために「友人とカエルを見つけては焼いて食べていた」

小中学生のころから成績優秀だった。ベトナム全土から生徒が選抜されるチューバンアン高校に数学専攻で入学を許された。当時の夢は物理学者で「アインシュタインがヒーローだった」。74年に旧ソ連のモスクワ大学に国費留学。大学院を修了した後、88年に12人の仲間とFPTを創業した。当初は国営企業だったが、2002年に民営化を果たす。

手本は日本企業。「三菱や住友など何百年も続く大企業から経営哲学を学んだ」。日本の経営者とも親交が深く、三菱商事の小島順彦会長や日産自動車のカルロス・ゴーン社長とは毎年のように面会する。課題は後継者づくり。09年4月に後継者を指名して最高経営責任者(CEO)から一時退いたが、12年9月に復帰。「全事業に精通している人間がおらず、社員に対する知名度も低かった」と失敗を認める。改めて4年計画で後継者集団の育成を進めているが、会長職は続ける意向。

「世界はさらにデジタル化し、人と人、人と企業のコミュニケーションが密になる。様々なチャンスも生まれる」。まだまだ意気軒高だ。56歳。

ITの雄 13カ国に拠点

昨年、地元紙に「ベトナムで最も影響力のある経営者」の1人に選ばれた。ベトナム戦争の傷痕がまだ残る1988年、同国最初のIT(情報技術)企業であるFPTを創立。四半世紀にわたって、IT産業をけん引し続けてきた。「次代のIT大国」ベトナムのトップランナーだ。

4月上旬に開催されたFPTの定時株主総会。壇上でにやりと笑うと、同社が独自技術を導入した人型ロボットを紹介した。ベトナム語や英語で話し、韓国人歌手PSYのヒット曲「江南スタイル」にあわせて踊るロボットについて、うれしそうに説明を続けた。無邪気な姿はコンピューターに憧れた少年時代から変わらない。

中学1年生の時、教師に連れられて、ベトナムに輸入されたばかりの旧ソ連製コンピューター「ミンスク―32」を見学。「部屋全体を占めるほど巨大なコンピューターに興奮し、忘れられなくなった」。この出来事が人生に大きな影響を与えることになる。

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起業の動機は生活苦からの脱却だった。ベトナム戦争終結から10年余。社会主義経済は行き詰まり、食料不足が続いていた。研究者としての月給は約5ドル。とても家族を養うことはできない。「何とか家族の生活を良くしたい」。何をしようか考えていた時にミンスク―32の記憶がよみがえってきた。コンピューターやIT技術をビジネスにできないか。旧ソ連に留学した当時の仲間に声をかけた。

創業当時は食料事情を改善しようと食品加工技術の開発を目指したが芽が出なかった。そこでイタリア製パソコンの輸入販売などをしながらソフトウエア開発の技術を磨いた。当時のベトナムでは航空会社の予約管理や銀行の出納記録も手書きが一般的。これをデジタル化するソフトなどを開発し、実績を伸ばした。

飛躍のきっかけとなったのは96年のインド視察。「ベトナム人にだってできるはずだ」。IT企業のタタ・コンサルタンシーサービシズやインフォシスの職場を見学し、生来の負けん気に火がついた。開発コストの安さを武器に、米マイクロソフトなど海外企業から受注。今はベトナムを含め世界13カ国に拠点を持つ。

とりわけ日本企業とは結びつきが深い。日立、NTT、キヤノンなど大手企業を中心に約60社から開発を受託。ソフトウエア開発の売上高の50%超が日本企業からの案件だ。今やベトナムはインドを抜き、日本企業のオフショア開発先の2位。同1位の中国で賃金高騰や政情リスクが高まるなか、FPTへの期待はさらに高まっている。

「最も大切なのは人材」というのが持論。98年にインド企業と合弁でプログラマー養成センターを設立。これまでに7万人のベトナム人技術者を養成した。

2007年には民間企業として初めて、IT技術者を育成する4年制大学「FPT大学」を開校。英語を必修科目にし、オフショア開発に不可欠な「コミュニケーター」の養成を強化した。1万5千人いる在校生のうち約6千人が日本語も学んでいる。英大学評価機関がつけた評価は3つ星。FPT高校の開校準備も進める。

事業領域はこれら教育部門に加え、ソフトウエア・基幹システム開発、インターネットプロバイダー事業、タブレット型PCやスマートフォン(高機能携帯電話)などIT機器の生産・販売と幅広い。従業員数はグループ全体で1万5千人に。売上高は10年で12倍の約1200億円になった。

業界全体の育成にも尽力する。01年にベトナムソフトウエア協会(VINASA)を設立し、会長を務める。同業他社と協力した案件受託にも積極的だ。今ではベトナムのIT産業は市場規模が1兆円を超え、IT関連人材も30万人以上に増えた。

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目覚ましい成長ぶりはベトナム政府も動かした。政府はIT産業を「各種インフラの基盤」と位置づけ、ハイテク企業向け税制優遇策を開設。20年までに100万人のIT人材育成を目標に掲げる。

周囲からカリスマ的と評される言動は、独特の経営哲学に彩られている。「戦争とビジネスは共通点がある」と考え、同国の英雄ボー・グエン・ザップ将軍などに面会。戦時中の部下の管理法や戦術を学んだ。日本や中国の歴史、哲学にも造詣が深い。その思想が戦時中のように社員全員が競い合って創造力を発揮する「FPT文化」と呼ばれる独特の企業文化を生んだ。

今後は「クラウドコンピューティング、ビッグデータなどスマートサービスに力をいれる」という。米シリコンバレーに3月、研究開発(R&D)センターを開設したのも先端技術を吸収するため。スタッフ数を10万人以上に増やし「スマートサービスのグローバル企業になりたい」と意気込む。

[2013年5月4日/日本経済新聞]
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科学技術部門
テジラジ・アミナバビ氏(ソニア薬科大学名誉教授、インド)
経験継承に心砕く

1947年にカルナタカ州ガダッグに生まれた。70年にカルナタカ大で修士号を取得後、75年に渡米。82年にインドに帰国し、カルナタカ大で2007年の定年退職を迎えるまで教壇に立った。

02年にはインド政府から資金提供を受け、同大高分子科学研究所を設立し所長にも就任した。定年後、インド新興財閥、リライアンスのグループ企業のコンサルタントを務めた後、ソニア薬科大名誉教授兼製薬技術研究所長に。また、全インド技術教育委員会の名誉フェローも務める。今は自分の知識や経験を若い研究者や学生に継承することに心を砕く。

子どもの時から水泳が得意で、米国に滞在する際はよく泳ぐが「この田舎町にはプールすらないからね」と少し寂しげ。ヨガにはまった時期もあった。瞑想(めいそう)は大事だが「その日にすべき仕事のことばかり考え、邪心が入るのでやめた」。妻(58)との間に3人の娘。66歳。

脳の患部に薬を届ける

「赤ひげ先生」という呼び名が科学の世界にもあるとしたら、こんな人のことを言うのかもしれない。インドの首都ニューデリーから飛行機と車を乗り継いで丸一日。南部カルナタカ州ダルワルという片田舎にある、生徒数わずか200人のソニア薬科大で研究に打ちこむ。

彼が校舎内を歩くたびに、学生の人だかりがザザッと動く。先生の言うことは一言も聞き漏らさないぞという生徒の熱気が伝わってくる。

「ここにがんに効く良い薬があるとするよね。でも、これをピンポイントにがんのある場所に体内を通して運ぶのは至難の業。我々はその薬を運ぶ『車両』を開発しているんだ」。いつの間にか「講義」が始まっていた。

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胃で消化されず、かつ、不純物に拒絶反応を示す脳の患部に薬をどうやって直接届けるのか。この難題を、天然由来の原料による高分子素材を使った新タイプの膜を開発することで解決した。

100万〜10億分の1メートルサイズの微小な球状カプセルや微小な穴が開いた多孔質体の加工にも成功。薬を体内の患部に届ける独自のシステムを確立し、がんやアルツハイマーなど脳の病気の治療で必要とされる投薬システムの世界的権威だ。

貧しい農家に生まれた。カルナタカ大で化学の修士号を取得し、大学講師としてコツコツためた資金で、新しい分野として注目を集めていた高分子素材の研究が盛んだった米国に渡った。

テキサス大オースティン校から毎月400ドルの奨学金を受けながら博士号を取得。その後、ニューヨーク州のクラークソン大などで研究を重ねた後、1982年に母国に戻る決心をした。「米国では実験設備も充実、研究資金も申し分なく、みんなから『気は確かか?』と言われた。でも、自分の蓄えた知識を故郷の進歩のために生かしたかった」

母校カルナタカ大で後進を指導しつつ、毎夏、米国でスリーエムやデュポンなど大手化学メーカーなどと組み製品への応用で実績を重ねた。「インドでは派手な研究開発をしたくても機材もなく、お金もない。でも、その分インド人は机上や頭の中でよく考える。『無から有を生む』。それがこの国の強みであり、基礎研究に向いている」と分析する。

「セレンディピティー」という科学の世界で好んで使われる言葉を大切にしている。「探しているものとは別の価値あるものを発見する」という意味だ。

「ドクター・シラカワのケースが典型だ」。2000年に導電性高分子の発見で、白川英樹筑波大名誉教授と共にノーベル化学賞を受賞したアラン・マクダイアミッド氏(07年死去)。同氏は白川氏の研究室を訪ねた際、誤って規定を超える触媒を入れて真っ黒になった導電性ポリアセチレン膜を見てひらめき、共同研究を持ちかけノーベル賞につながった。

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研究室の壁には、そのマクダイアミッド氏と映った写真が大事に貼られている。燃料電池向けの高分子複合材やナノファイバーの研究に2人で没頭した。

目下、先進国への階段を駆け上るインドだが、その裏で環境問題はこの国をむしばんでいる。

ナノレベルの浸透や電解透析といった細胞膜を使った分離の実証で、工場排水の浄化や塩水の淡水化などの分離技術などに応用した。自分が開発した環境技術が母国に広がることを夢見ている。

[2013年5月4日/日本経済新聞]
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文化部門
ヴァン・モリヴァン氏(建築家、カンボジア)
日本建築にも造詣

1926年、カンボジア南部のカンポット州生まれ。両親は貧しい農家で「お金を稼ぐため」に法律を学び、公務員を目指した。46年にパリへ留学した時も当初の専攻は法律学。建築学に転向したのは、アメリカンコミックが好きで、よく絵を描いていたのを見た教師に勧められたのがきっかけだという。

当時、カンボジア人のエリート層にはフランス留学組が多く、パリの学校では後にポル・ポト政権の国家幹部会議長(国家元首格)となったキュー・サムファン氏らと席を並べた。「彼らは共産主義にかぶれていたが、私は共感できなかった」

56年の帰国後は建築家としての活動に加え、芸術・教育を振興する役割も担う。65年に王立芸術大学学長、67年に教育・芸術相を歴任。71年の亡命後は、国連人間居住計画(ハビタット)の上級技術顧問として、ラオスやアフリカのブルンジで活動していた。

日本建築への造詣も深い。妻との新婚旅行で奈良・京都を訪問。「日本建築はカンボジアの建築とは全く異なるが、自然環境と調和していて素晴らしい」と絶賛する。建築家では丹下健三氏を尊敬している。

妻と2人暮らし。1日の大半を読書と、自著の英語版発行などに向けた仕事に充てる。近所に住む孫の学校への送り迎えや犬の散歩が日課だ。86歳。

アンコールの美 現代に

カンボジアの首都プノンペン中心部から車で10分。緑に包まれたヴァン・モリヴァン氏の自宅が見えてくる。1966年に自身が設計・建築した「作品」のひとつだ。

採光、通風、そして自然――。高温多湿の気候や風土がはぐくんだカンボジアの伝統建築と、フランスで学んだ近代建築を融合。コンクリートと木のぬくもりが共存する室内には、窓から木漏れ日のように自然光が降り注ぎ、心地よい風が通り抜ける。

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創作の原点は40〜50年代のフランスのパリ。多くの芸術家を輩出した国立美術学校エコール・デ・ボザールに留学し、建築学を学んだ。「当時、戦争が終わった欧州では都市の再開発が進んでいた。特にフランスは新たな文化のアイデアやエネルギーに満ちあふれていた」と述懐する。

なかでも影響を受けたのは、近代建築の祖といわれる建築家ル・コルビジェ。彼の弟子や一緒に仕事をした人々と交流し、インスピレーションを蓄えていった。祖国カンボジアが生み出したアンコール遺跡の美しさや機能性の素晴らしさを再確認したのもこの頃だった。
 留学から帰った1956年に才能が開花した。建国の父ノロドム・シアヌーク前国王のもと、フランスから独立したばかりのカンボジアは、新国家建設にふさわしい建築物や都市計画を求めていた。国家建築物の主任建築家と都市計画・住宅整備局長に抜てきされたのは30歳のモリヴァン氏だった。

「シアヌーク前国王は若者にチャンスを与えてくれた」。最大の理解者を得たモリヴァン氏は新しいアイデアの建物を次々に生み出した。

アンコール時代の装飾と現代建築の要素を両立させた独立記念塔。扇形の外観が特徴的なチャトモック国際会議場。「コルビジェ建築」に通じるピロティや日よけを備えた外語大学校舎。後に「ニュー・クメール建築」と呼ばれるジャンルを築いたモリヴァン氏が設計した作品は80カ所以上。当時の公共建築の約8割を占めたといわれる。

最高傑作は何か。そう尋ねると「オリンピックスタジアム」と即座に答えが返ってきた。63年の東南アジア競技大会開催にあわせて建設が進められた同スタジアムは6万人を収容できる屋外競技場に加え、水泳競技場や選手宿舎などを含む、同国初の複合開発だった。

雨の多いカンボジアの気候を踏まえ、競技場の設計にはスタンドとグラウンドの間に溝を作るなど排水しやすい工夫を取り入れた。「都市全体のスケールを考慮し、自然環境や歴史も尊重した設計思想は現代に通じる高い水準だった」と、カンボジア建築に詳しい1級建築士の小出陽子氏は語る。

だが、独立後の国家建設に沸いた「カンボジアの黄金期」は長くは続かなかった。70年に親米のロン・ノル政権が実権を握るとシアヌーク前国王は国を追われた。モリヴァン氏も翌年、スイス人の妻と6人の子どもとともにスイス・ローザンヌへと亡命した。

極端な共産主義を打ち出したポル・ポト政権の大量虐殺、ベトナムのカンボジア侵攻など内戦が続き、ようやく帰国できたのは20年後。国は荒れ果て「カオス(混沌)だった」。彼が残した建築物の設計図や図面は廃棄されていた。

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真っ先に取り組んだのは彼が「国の遺産(レガシー)」と呼ぶアンコール遺跡の保存・修復だった。破壊こそ免れたが、風雨にさらされて有害なカビに侵食されていた。

シアヌーク前国王に請われて政府の国務大臣に就くと、遺跡の保存・修復と、そのための人材育成に全力を挙げた。ともに作業にあたった上智大の石沢良昭特別招聘(しょうへい)教授は「モリヴァン氏は『遺跡はカンボジア人の手で修復すべきだ』と常に言い続けていた」と振り返る。

アンコール遺跡が世界遺産に登録された後、95年にアンコール地域遺跡整備機構(アプサラ機構)の初代総裁に就任。日本、フランス、国連などからなるチームを率いた。「清廉で、誰もが尊敬する彼だからこそ全員をまとめられた」(アンコール遺跡修復に参加した考古学・民俗学者のアン・チュリアン氏)

今、愛してやまない祖国では新たな問題が起きている。経済発展に伴う乱開発だ。プノンペン市内では政府の土地収用が進み、中国・韓国などの資本による開発が進む。彼の作品も再開発という名の波にのまれ、姿を消しつつある。

昨年10月にシアヌーク前国王が死去し、ひとつの時代が幕を閉じた。だが、カンボジアでは改めてモリヴァン氏の業績を見直す機運も高まっている。米国と現地の研究者が中心となって、現在残っている作品から図面を起こし、後世に残そうというプロジェクトを進めている。

今も若手建築家らが自宅を訪ねてくると何時間も講義をする。「若い建築家も海外を旅して、いつの日かカンボジアに戻ってきてほしい」。希望に満ちた目でそう語った。

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