第17回受賞者

 
経済発展部門  楊 勇 (環境保護活動家、中国)   科学技術部門 翁 啓恵(中央研究院院長、台湾)   文化部門 シビル・ウェッタシンハ(絵本作家、スリランカ)
中国・長江の生態系や水質を20年以上に渡ってボランティアで調査し、環境保全を訴え続けている。(写真左)   「糖鎖化学」と呼ばれる分野の世界的な研究者。新たなワクチンや新薬の製造に道をひらいた。(写真中)   母国の自然や民族文化を織り込んだ作品は海外で翻訳され、子供たちに愛されている。(写真右)
詳しくはこちら    
経済発展部門
楊勇(環境保護活動家、中国)
自由な立場での調査重視

1959年、中国四川省南部の涼山彝(い)族自治州金陽県出身。政府組織の一員として環境対策を講じるのではなく、独立した自由な立場で環境保護の大切さや持続可能な経済発展の必要性を主張する。政府の一部になると、現場での作業が通り一遍となり、結論ありきの調査になる恐れがあるためだ。一人もしくは少人数で徹底的に現場を調べる手法を採用する。

調査結果については、環境問題などのシンポジウムで発表するほか、政府や研究機関に張り巡らされた人的ネットワークを通じて喫緊の問題を国家の上層部に伝える。中国国営の新華社や中国中央テレビ、米CNNなど国内外のメディアの報道によって、政府の政策決定に影響を与えている。息子は旅行専門テレビ局の記者。52歳。

自然見つめ政府に警鐘

「ここから見える風景はマンションと工場だけになってしまった」。自宅兼オフィスがある四川省成都市のマンション。車の排ガスや建設ラッシュで巻き上がるホコリが立ちこめ、街を取り囲む山々は見えない。中国だけでなく、世界各国の環境問題の専門家らが足しげく通う小さな一室のテラスで楊勇氏はつぶやくと、地図を片手に自宅を足早に飛び出した。

実は、成都にはほとんどいない。現場にこだわり、自ら歩いて地質や水質の調査を進める。調査予定がもともと決まっている政府の調査団とは異なり、気になった場所では徹底的に何度も調査する。最近取り組んでいる水源調査ではチベットなど4万キロ以上を走破した。

四川省は長江や黄河の源流など1400本の河川が流れる肥よくな土地。干ばつやききんが少なく、「天府之国」と称される。しかし、最近は森林伐採やダム建設が増加の一途をたどり、環境の破壊が深刻化。中国文明を育ててきた源から中国の環境問題に警鐘を鳴らす在野の研究者として知られる。

原点は、チベットを水源として長江に流れる金沙江だ。人民解放軍兵士の父と、医学を修めた母の間に生まれ、四川省で雲南省と接する涼山彝(い)族自治州の辺境で過ごし、自然と親しんだ。小中高は文化大革命の影響で勉強はできず、農村での労働ばかり。ただ地図だけは片時も手放さず、地質や地理の勉強への情熱は捨てなかった。

1977年に大学が再開すると、四川砿業学院(現・中国砿業大学)に進学。鉱物資源を開発するための技術者を養成する教育機関で、石炭の探査などを通じて地質調査のノウハウを身につけた。卒業後は四川省攀枝花(はんしか)市の鉱務局に勤務。炭鉱の坑道策定や開発に使う地質調査を手掛けた。

転機は86年に訪れた。米国人が85年に長江の源流から河口まで川下りをする冒険を試みることが明らかになり、米国人に先を越されまいとする動きが中国人の間に起きた。楊勇氏もその一人で、86年に川下りに挑戦。仲間が亡くなるなどの障害を乗り越えて半年かけて成功した。「川下りは単なる冒険だったが、河川の自然破壊の実態を知った」と振り返る。

そこで88年に上流の金沙江の流域を5カ月間かけてじっくり調査。工業廃水による水質汚染に加え、森林伐採の影響で地盤が弱くなり、がけ崩れや土砂流出が頻発している実情をつかんだ。当時は政府が三峡ダム建設の最終判断を下す前で、河川のありのままの姿を知らせることが急務だと判断した。

李鵬首相(当時)に、長江上流の状態を撮影した写真を貼った報告書を送付。日本の国会に相当する全国人民代表大会(全人代)の代表や政府幹部や北京の専門家と連絡をとり、慎重な判断を求めた。関係者によると、楊勇氏の調査などが後押しとなって会議では三峡ダムの建設が先送りになった。

しかし、89年に天安門事件が起きると事態は一変。職場が長期休暇を認めなくなり、中央政府の幹部らの支持も失う。三峡ダムの建設も固まったことから、楊勇氏は辞職して独自に環境調査を始めた。旅行会社で外国人専門家の中国での現地調査や冒険イベントなどの調整役をして稼ぎながらの活動だ。

2000年には非政府組織(NGO)「横断山研究会」を立ち上げる。政府が約6兆円を投じて中国南部の豊富な水を水路などによって北部に運ぶ「南水北調」プロジェクトに着手したことから、楊勇氏は水源の実態調査を強化する。同プロジェクトは3本の路線を予定しているが、最も上流に位置する西ルートは「水量が少なく、工事も難しいため非現実的だ」とする調査をまとめ、政府の開発凍結の判断に影響を与えた。

最近はダム建設と自然災害の関連についても多くの調査を手掛ける。三峡ダムが中国南部で相次いで発生している干ばつや集中豪雨などの天災の一因となっていると分析。08年の四川大地震では近隣のダム建設が地盤に影響を与え、「地震の一因になった」との見方を示す。

「経済発展と自然災害は関連している」が持論。ダム建設では、国有の発電会社や建設会社がダム建設を推進するが、住民の転居や災害は地元政府が責任や費用を負う。「電力会社などの利益を考えるだけでなく、社会的影響を含めた総収益を計算し、建設の是非を論ずるべきだ」と提言。自然保護だけを声高に訴える団体とは一線を画し、実態調査に徹しており、国営メディアからの取材も多い。

昨年3月に日本を襲った東日本大震災にも関心を寄せる。東京電力福島第1原子力発電所で放射性物質の漏洩事故が起きたため、中国でも原発計画の見直し機運が高まる。「人類は災害の発生を完全には予知できないが、リスクを考えることはできる」。高成長を続ける中国の環境破壊は進み、自然災害も増え続ける。楊勇氏の現場調査に終わりはない。

(重慶=多部田俊輔)

[2012年5月4日/日本経済新聞]
記念講演要旨
一人ひとり環境に責任

中国では急速な経済発展に伴い水不足が日増しに深刻になっている。気候変動の影響や産業用水の利用による問題、水質汚染など背景は様々だが、原因を一つ一つ明確にしてこそ対応策が見えてくる。やみくもに(ダム建設など)大型工事をしてもダメだ。

これまでの経済発展を振り返り、成長の方法を見直す必要がある。生活や消費習慣を変えて解決すべきだ。国際協力を通じて河川や水資源を持続できるような発展に取り組み、命の源である水が永続的に恵みをもたらすよう望んでいる。

我々は科学技術の進歩などにより物質的な豊かさを得た。だが、多くの資源を使った結果、行き過ぎた発展や消費という問題が起きた。どんな未来を選択すべきか、重要な時期を迎えている。すべての国、すべての民族の一人ひとりが未来に責任を負うべきだ。

[2012年5月24日/日本経済新聞]
PAGETOP
経済発展部門
翁 啓恵
国際賞数多く、日本でも研究国際賞数多く、日本でも研究

1948年に台湾の嘉義県で生まれる。幼いころから化学に興味を持ち、台湾大学大学院化学研究科を経て米マサチューセッツ工科大学大学院で博士号を取得した。

教授になってからも寝食を忘れて研究に励んだが「苦労と思ったことは一度もない」と話す根っからの研究者だ。細胞の表面で情報伝達を担う「糖鎖」を素早く大量に合成する画期的な技術を開発。数多くの国際賞を受賞しており、2006年には台湾の最高学術研究機関である中央研究院の院長に就任した。

日本の理化学研究所に在籍した経験を通じ「仕事を綿密にこなす日本の研究者たちに非常にいい印象を持った」。台湾の若手研究者たちには「研究には多くの困難がつきもの。信念を持って継続すれば必ず突破できる」と熱っぽく語る。63歳。

自然見つめ政府に警鐘

台北市の中心部から車で約30分。緑の木々に囲まれた清涼感あふれる丘の上に、台湾の学術研究機関の最高峰とされる中央研究院がある。この院長を2006年から務めるのが翁啓恵氏だ。前任者は台湾で唯一のノーベル賞(化学賞)受賞者である李遠哲博士。この役職が台湾でいかに重視されているかを物語る。

翁氏は「糖鎖化学」と呼ばれる分野の世界的な研究者だ。細胞の表面で情報伝達などの機能を持つ糖鎖を短時間で大量に合成する技術を開発。この成果はがんや感染症などの診断・治療などに幅広く応用され、ワクチン開発や製薬にも貢献している。

「化学者になるのが幼いころからの夢だった」とほほ笑む。1948年に台湾の中西部にある嘉義県で8人兄弟の6番目として誕生。メロンやミカンなどの栽培で知られる農業地帯だが、日本に留学経験もある教育熱心な父母のもとで育った。内気な子どもだったが好奇心は人一倍。自宅や図書館の化学の本を読みあさり、学校の授業では目を輝かせて実験に取り組んだ。

だが両親は息子が医者になることを望み、台湾大学の医学部の受験を強く推薦。結局、医学部には不合格で農業化学部に進んだ。翁氏は「あのとき医学部に合格しなくて本当にラッキーだった」と苦笑いする。

77年に台湾大大学院の化学研究科を修了し、79年に米マサチューセッツ工科大学大学院に留学。82年に博士号を取得した。ライフワークとなる糖鎖の研究に興味を持ち始めたのもこのころだ。

糖鎖は各種の糖が鎖のように長くつながった物質。たんぱく質やDNA(デオキシリボ核酸)に続く第3の生体分子といわれる。細胞の表面に木の枝のように張り出し、侵入してきた菌やウイルスを感知するアンテナ機能などを持つ。糖鎖の異常を分析できれば様々な疾患の治療につながるが、構造が複雑なため研究に必要な糖鎖の大量合成が「実現不可能」とされてきた。

89年にカリフォルニア州のスクリプス研究所教授に就任。日夜研究に没頭するなかで92年に発見したのが、従来の化学合成に酵素反応を組み合わせて糖鎖の大量合成を可能にする技術だった。さらにこうした反応を短時間で促進する技術も99年に開発。これにより各種の実験・検査に必要な糖チップや糖たんぱく質の合成が可能になり、ワクチン開発や製薬への応用にも道を開いた。

これらの成果の一端が、翁氏が07年に発表した乳がんワクチンの開発だ。糖鎖の設計技術を活用し、非ウイルス性のがんに対するワクチンとしては世界初という。発表当時の段階で、末期症状の患者に対する治療有効性は80%以上という。早ければ来年にも臨床試験(治験)を終えて製品化される見通し。「乳がん以外の多くのがんの予防・治療にもつながる」と期待する。

これまで発表した論文は700以上、取得した特許は100以上にのぼる。産学連携にも熱心だ。98年には米国でバイオ医薬品ベンチャーのオプティマーの設立に創業者の1人として参加。同社は翁氏の特許を活用して成長し、アステラス製薬にも大腸の感染症の治療薬を提供している。

物静かな語り口の翁氏だが次代を担う人材育成にかける思いは極めて熱い。その表れが昨年8月に中央研究院の院長として打ち出した「人材宣言」だ。台湾はパソコンなどIT(情報技術)機器の受託製造の世界的な拠点として知られるが、「産業分野が偏っており、学術界が育てた多元的な人材を使いこなせていない」と舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判した。

翁氏は人材宣言で台湾の行政院(内閣)に対し、産業構造の変革や優れた研究者を世界中から呼び込むための具体策を提言した。人材育成の環境を台湾全体で整えることで「学術界と産業界の距離を縮めたい」と意気込む。

91〜99年には日本の理化学研究所の研究チームに参加。いまでも家族で日本を旅行する大の親日家だ。昨年3月の東日本大震災の際には日本の知人たちに急ぎメールを送り、「東北の研究者のために中央研究院の施設を貸し出してもいい」と提案したほどだ。

「日本にはまだ見習うべき点が多い。日台は学術・産業面でもっと緊密に協力すべきだ」と語る。日台やアジアの発展のため今後も情熱を注ぐ覚悟だ。

(台北=山下和成)

[2012年5月4日/日本経済新聞]
記念講演要旨
難病治療の探求続ける難病治療の探求続ける

「糖鎖化学」という学問分野に取り組んで30年。糖鎖は細胞の表面にあり、ウイルスなどをアンテナのように感知する。糖鎖の分析は様々な疾患の治療につながる。私が開発したのは糖鎖を合成する技術。重要なのは合成を大規模、迅速にするための技術だ。

大量の糖鎖を作れるようになったため、新たな薬剤やワクチンの開発ツールとして使われてきた。がんや感染症のほか、インフルエンザやエイズウイルス(HIV)の研究にも役立っている。乳がんワクチンは(製品化直前の)第3相臨床試験の段階にある。

糖鎖化学はすでに重要分野だ。受賞で社会的認知がさらに広がってうれしい。今後も仕事を続け、さらに重要な開発に役立てたい。がんや免疫疾病、感染症など多くの人が苦しむ病気を解決する大きな力となるだろう。

[2012年5月24日/日本経済新聞]
PAGETOP
経済発展部門
翁 啓恵
国際賞数多く、日本でも研究国際賞数多く、日本でも研究

1928年、スリランカ南部のギントタ生まれ。難産で、祖父が自分の娘である母親を心配するあまり、産後しばらく放っておかれた。哀れに思った医者が養子を申し出たほどだった。
7歳の時、英国式教育を受けるために両親とともにコロンボに転居。そのため、今も物語はシンハラ語と英語のどちらが先に頭に浮かぶか自分でもわからないという。一方で絵は独学。「自分の中の子どもと大人を調和させる」ことで創造性が生まれるという。
スリランカの古い生活習慣や民族文化を切り取った物語は、母国だけでなく北欧や米国、日本で相次いで翻訳され多くのファンを持つ。
代表作は第3回野間国際絵本原画コンクール(1982年)で佳作だった「かさどろぼう」のほか「きつねのホイティ」「ねこのくにのおきゃくさま」「にげだしたひげ」「わたしのなかの子ども」(幼年記)。
創作活動の合間にラジオで仏教の説法を聞くのが楽しみだ。「私、いつ死んでもいいの。でも、まだこの世界に貢献すべきことがあるから輪廻(りんね)でもう一度この世に生を受けたいかも」。83歳。

自然見つめ政府に警鐘

こんなにも豊かな子ども時代を送った人が羨ましい。約80年前の少女の美しい記憶は、きらびやかな「宝石箱」。それを今も毎日そっと開けては極上の物語を紡ぎ出す。

インド洋に浮かぶ島国スリランカの南部。城塞都市ゴール近郊のギントタという村で幼少期を過ごした。これが絵本作家としての、そして人生の原点だ。「自分の中に生き続けてきた"子ども"が今も本を描かせている」と言うように、声も身のこなしも若々しい。

ギントタの人々は自然や動物と共存し、生活スタイルは極めてシンプルだった。幸せは共有し、不幸な時は助け合った。誰も裕福ではなかったが、笑顔は絶えなかった。

「傘なんて誰も持っていなかった。雨が降れば葉っぱや袋を頭に広げるだけ」。世界中で翻訳されている代表作「かさどろぼう」は、そんな少女時代の記憶から着想した。傘を見たこともなかった村の男が、町で見かけた傘の美しさに心奪われ持ち帰る。でも、何度買ってもだれかに盗まれてしまう。その"犯人"は意外にも――。

ごちそうにありつきたい一心で人間に変装したきつねと村人の化かし合い、切られるのがいやで逃げ出した男のヒゲ……。南国の鮮やかな色使いの絵とユーモア満載の物語には、思いやりや善悪の判断など、スリランカの「仏教的道徳観」がさりげなくまぶされている。読み手の子どもは見たこともない、でもどこか懐かしい異国の情景の中にそれを見つける。

「一生のうちで一番幸せだった」という村での生活は7歳の時に終わりを迎えた。当時の宗主国・英国の教育を受けさせるため、両親はコロンボへの移住を決意。外国から来た修道女らが教壇に立つ学校では、母語のシンハラ語を話すことを許されなかった。

望郷の念は募るばかり。来る日も来る日も記憶をたどり、羽根ペンと黒のインクで村での生活や風景を描き続けた。父親がその作品をコロンボのギャラリーに展示したところ、15歳の時に教師用テキストに挿絵を描く機会が舞い込んだ。

大学への進学を望んだ母親の反対を押し切り18歳で新聞社に就職。週1回、子ども用のコラムに、自身が母親や祖母から聞いた詩や物語の世界を4コマのイラストに描いたところ評判を呼んだ。

その後、別の英字新聞社で働いていた時、子ども面を担当していた記者がそばに来てこう言った。「なぜ、自分の物語を描かないの?」。そんな言葉に背中を押されて作ったのが「かさどろぼう」だ。そしてこのアドバイスをくれた記者が、後の夫だ。1953年に結婚、2男2女をもうけた。

大好きだった夫は24年前に他界。今はコロンボ郊外に、仕事場と寝室と台所だけの質素な家に一人で住む。午前4時に起床し、頭にあふれてくる言葉や絵のイメージを書き留める。1つの作品を完成させるのに約4カ月。多作ではないと謙遜するが、200以上の作品を世に送り出してきた。

家に招かれた日は蒸し暑い天気だったが、心地よい風が入るアトリエで絵筆を握る姿は少女のようで愛らしい。「私は楽観主義。悲しいことは心に入れないようにしている」。難産だった影響で、左目は生まれつき光がない。でも、それに気付いたのは32歳の時だというから驚きだ。それまでは自動車の運転すらしていた。「私、距離感の才能があるみたいなの」とあっけらかんと笑う。

「多くの人間は、大人になると"内なる子ども"を失っていく」という。「例えば、隣の家は車があるのに、今、2台目を買おうとしている。人と競い合い、今持っているモノで決して心が満たされないのが大人。だからいつまでたっても幸福を得られない」とは耳が痛い。

「幸せな感情に包まれた子ども時代を過ごすことが、人生にとって最も大切なこと」というのが持論だ。昨今は、子どもたちや図書館への本の寄付や寒村での母親教室など、青少年健全育成事業にも取り組む。

2004年のスマトラ沖地震。ギントタの思い出の学校の校舎は津波がさらっていったが、お気に入りだった校内の竹林だけは現在もシャンと立つ。今、一番憂えているのは東日本大震災で夢や目標を失いかけている日本の子どもたち。「竹のようにしなやかで強く、しっかり根を張って生きるのよ」。子どもに向ける目はどこまでも温かい。

(コロンボ=岩城聡)

[2012年5月4日/日本経済新聞]
記念講演要旨
難病治療の探求続ける難病治療の探求続ける

スリランカに生まれ、崩れかけた家に住んでいたが、夢があった。木々や鳥、風、雨が話しかけてきて、雲は魔法のような楽しい時をつくってくれた。こんな幼少期の体験が私の絵本の背景になっている。自分で絵を描くことを覚え、長い間絵本を描き続けてきた。80歳を超えた今も心は子どものままだ。

私の故郷は砂利道が舗装されオートバイが走るようになったが、田んぼや木々の中に「おとぎの国」が残っている。人々の温かい笑顔も変わらない。幼少期の思い出をたぐり寄せて絵や詩を創るのがお気に入りの時間だ。そうすることで子どもたちを楽しませたい。

世界中の子どもが私の子ども。子どもが私の人生に刺激を与えてくれる。私が受けた名誉は母国と、絵本を通じて私を愛してくれるすべての子どものものだ。幸せな感情に包まれた子ども時代を過ごすことが、人生で最も大切なことだ。

[2012年5月24日/日本経済新聞]
PAGETOP